人と暮らしをつなぐ藁細工ー沼田富男さん

日本人の主食として、生命の糧として大切にされてきたお米。飛騨でも、古くからお米作りは行われてきました。田んぼの準備から、田植え、収穫、脱穀まで、一粒のお米に八十八回の手間がかかることから、「米」という漢字になったとも言われています。

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飛騨では、お米を脱穀したあとに残る「藁(わら)」を無駄なく利用してきました。畑の肥料、家畜の餌にするばかりでなく、多くの生活用具を作る資材として使ってきました。わらには、稲作の文化と同じくらい長い歴史があるのでしょう。丈夫で、手に入りやすく、様々なものに加工できるので、「木」よりも便利なものでした。「藁」という漢字は「木よりも高い草」と表現されています。

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藁は、数十年前までは、生まれてから亡くなるまで人々の生活に密着したものでした。藁細工には使わない稲の葉をすくべといい、すくべを綿の代わりに使用したすくべぶとんは、乾きやすいのため、赤ちゃん用の布団として使われてきました。また、亡くなった方を包むのも藁でした。

子どもたちはわらぞうりを履いて走り回り、家でのお手伝いはなわない(縄をよること)だったと言います。縄は、物を結わったり、草履の緒やかごの紐など身に纏うものから、合掌作りの骨組を縛る紐にもなり、生活全てを支えるものでした。

ビニール袋や紙袋が今のようになかった頃、お土産や食べ残しを藁筒で包み、肩にぶら下げて帰ったそうです。藁筒の作り方が甘いと、中身が落ちて空っぽだったなんていう、笑い話もありました。

戦後、縄はビニール紐に、草鞋はビニールや皮素材の靴に代わり、一手間かかる藁細工を日常生活で見る機会は急激に減りました。それでも、飛騨の人たちの藁への愛着は、戦後もしばらく続き、ビニール靴の中にすくべを細かくして詰めていたそうです。

 

 

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通称・古川の仙人、沼田富男さん(80歳)は、今、古川のお祭り事に欠かせない藁細工職人です。

沼田さんが子どものころ、自分の草履(ぞうり)を自分で編むことは、特別なことではありませんでした。学校から戻ると藁打ちをし、適当な長さに揃え、すくべを取り除いてから編み始めます。沼田さんも小学2年生頃から草履作りを始め、20歳の頃から積極的に草履以外の道具や飾り物を作るようになりました。

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沼田さんの工房「里山」は、飛騨古川を一望できる小高い山の上にあります。時には地元の子どもたち、時には遠方で藁細工を研究している人が、藁細工を習いに集まります。

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4月19日20日に行われる古川祭り・起こし太鼓。太鼓に巻くコモは、かつて各屋台組に編む人がいましたが、今では沼田さんを含め3名しかいません。起こし太鼓の祭りの準備から影で支えている沼田さんは、若者に編み方を丁寧に語り継いでいます。飛騨古川の魅力は、祭りを通して長老も若者も集い、語り合う現場から強く結ばれているからでしょう。

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藁細工のひとつのしめ縄は、全国的に、神聖な場所を清めることにも使われています。8月に紹介した七夕岩の縄も同様。祭りやお正月の前になると、集落の人が集まり、大縄を結わく姿がありました。神社の縄は半年から一年で腐るので、一年に一、二度作り直します。日用品の縄は右縄ですが、神行事用の縄は左縄を作ります。

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米作りは、大量生産に伴い機械化が進み、田んぼ風景も少しずつ変わっています。沼田さんは、食べるお米のことと一緒に藁細工に使用する藁のことも考え、稲刈りとはさかけをしていました。こういう一手間かかった風景は、日本の里山の風景として代々残したい風景の一つです。

藁は石器や金属とは異なり、道具として使用したあとは、細かく砕き畑に撒き、自然に還します。 自然と一体化した藁細工、沼田さんは、今一度生活の中で活かす知恵を語り継いでいます。

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